日出殉教祭における説教メモ(2014/10/19)

ヨハネによる福音 12章24-26

 その時、イエスは弟子達に言われた。はっきり言っておく、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従い、そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば父はこの人を大切にしてくださる。」

 

木口神父様による説教のメモ

 今日、私達はこの(、、)、この日出の殉教の地にあって、加賀山半左衛門そして息子ディエゴの殉教をお祝いしています。一般の方達は、誰かが、その教えにし、その初期で亡くなる、という時に、その魂を鎮める為に地鎮際のようなものとか、あるいは亡くなられた方の事を少し偲びながら、お祭りといいましょうか、皆で集まるようにしています。ただ私達はキリストの教えに従って、私達が信じているこの教えに従って、キリストのもとに私達、この地上から、地上の教会から、天上の教会へと向かった兄弟姉妹達を思い、そして私達もその生き方にならいたい、その死に方にならいたい、というそのような気持ちで祈りを捧げ、殉教祭を捧げていると思います。

 今の典礼の中で使われた第一朗読、マカバイ記の内容を、まあ皆さん、読んでいくと、途中で内容が少し変わっているという、気付かれると思います。えー、実際にマカバイ記の、7人の殉教者の話の部分を引用して朗読していますけれども、最初から最後までを示しているわけではないです。非常に長い殉教物語の一部だけを取っています。7人の兄弟が1人1人、自分達を死に追いやる、その王に対して、一人一人が違う角度から、その王様に自分達の命が、あなたの前では(、、)足りないものだ!と。神の教えに背くくらいならば、私達はこの命を惜しむという気は毛頭ない、と。そのような内容のことが書かれてあります。

 聖書、旧約聖書のそのマカバイ記の一番最初の、まあ長男だったかもしれませんけれども、第一の者が亡くなる時に、王に向かって次のように問います。「一体あなたは我々から何を聞きだし、何を知ろうというのか?我々は(、、)律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意が出来ている」。

 そして、その第一の兄弟が亡くなろうとする時に、兄弟達、残された兄弟達、そしてお母さんとで、声を揃って言います。「主なる神は私達を見守り、真実をもって、(、、)信仰をおくった(、、)告発する言葉の中で、主はその僕を力つけられる、と明らかに宣言しているように。」という言葉を、今で、兄弟とお母さんとで一緒に言っています。

 そして2番目の者は王に対して、「邪悪なものよ!あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は律法の為に死ぬ我々を永遠の新しい命へを甦らせてくださる。」

 そして3番目の者は「私は天からこの舌や手を授かった。が、主の律法の為なら惜しいとは思わない。私は主からそれらを再び頂けるのだと確信している。」

また第4,5,6の者も、復活の信仰をもって、そして殉教に向かっています。そしてこの6人が亡くなっていく中で、その6人を、その6人の殉教を見届けた母親がまず、「賞賛されるべきは、この母親であり、記憶させるべき模範であった。」という今日の(、、)の箇所が始まって、そしてこの6人に対して、「お前達はこういう生き方をしてきた。そしてこういう死に方をしていく。私はその事を誇りに思うし、お前達の後を私達はまた追いかけて行くよ!」という内容の事が書かれてあります。

 そして一番最後に残った末の弟に対しての言葉が後半で引用されています。そしてその末の、一番下の弟は神様がなくなった後に、私達全ての罪を犯した者、と結局、自分の兄弟あるいはお母さん、今、殉教していくこの兄弟、お母さん、私達が神様と和解出来るだけではなくて、この教えに従って生きる者は全て、神様と和解することが出来る。その和解の為に、和解の場に、私は向かおうとしている。という内容のことを、この末の弟が言います。そしてその末の、一番下の弟のその言葉を聞きながら、母親が「お前を3年乳を、お前に飲ませた。この歳になるまで導き、育ててきた。これを天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものを、既にあった物から創られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知ってくれ。この死、死刑執行を受けなければなりません。兄弟にならって喜んで死を受け入れなさい。そうすれば、憐れみによって、私はお前を、兄達と共に神様から戻して頂ける。という言葉をかけて、一番下の弟は亡くなっていきます。

 そして、その7人の子供達の殉教を見届けて、で、母親も殉教していきます。

 この別府湾をのぞむ自分の故郷を目の前にして、加賀山半左衛門は、どのように、自分の息子が近くにいて、多分、息子も殉教する、自分も殉教する。けれどもその時に、ああ、神様と和解して頂く為に、和解の場に私は行こうとしているんだ、と。そういう自覚はあったと思います。

 そして自分達を死に追いやるその人達をも、心の深いところで赦しながら、そして死を迎えていったと思います。

 そして、その父親の姿をしっかりと見た子供、息子のディエゴ。このディエゴはお父さんの後についていきます。そしてついて行って、神様の(、、)どっかその(、、)私達を憐れんでください、という和解の場に向かうことになります。

 この別府湾を眺めながら、どのような死を迎えていったのか?そして神様のもとに、この大分の地に住む全ての人を、「どうか神様、赦してください!」という気持ちで亡くなって行ったのだと思います。私達もこの地にあって別府湾をのぞみながら、この大分の、大分で生きる兄弟姉妹達が、『和解の場』に招かれるように、主なる神の赦しの場に招かれるように、そのような気持ちで福者と共に祈りを捧げて行きたいと思います。また私達も、このように彼らと同じように、和解の場に、赦しの場に向かって今日もまた歩き続けたいと思います。