マタイによる福音書5・17-18

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく、すべてのことが完成し、大地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 

贖罪(しょくざい)の目的は私を完全な人とすることにある。そして私がキリストの贖罪にあずかるようになったのは、私は自ら努めて完全になることができないからである。したがって贖罪は道徳の終極である。道徳の終わるところこれが宗教の始まるところである。宗教は道徳の上に立っている。道徳の粋、これを宗教という。初めにモーセの律法(おきて)があって後にキリストの恩恵(めぐみ)がある。未だに律法の厳格な綱をもって己を縛ったことのない人は、キリストという放免者の恩恵にあずかることのできない人である。(内村鑑三、8/9)

 

自分は、自分を厳しく律したことがない。だからキリストの恩恵のありがたさがわからない、あずかることのできないものなのだろうか?厳しくか。。。