加賀山親子 殉教祭における浜口司教様の説教メモ(2013/10/21)

信仰年、それは昨年の日出殉教祭で始まった。殉教を思い巡らすことは恵み。殉教者は信仰の極致を極めた人。殉教、キリスト者と一般に人で捉え方が違う。それは信仰の極致。10月初旬に南蛮コールというミサがあった。雨降る中、鎮魂祭は市役所の中へ場所を移した。その鎮魂という考え方が、違うな!と思った。目で見て「ちがうな!」、と思った。ミサ聖祭は慰める、鎮めるではない。日本的恨みを対象とするものではない。それは感謝の祭りである。日本人的感情で、鎮魂というのだろうが、罪を犯していない加賀山親子、5歳のディエゴ君の死。その怒りをどこにぶつけるとか、そういうものではない。

信仰者は殉教を勝利と考える。カトリック者にとって、たとえ敵がいても敵を愛する。赦さないといけない。今日の福音では、不正な裁判官。イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ること、たとえ死ぬことがあっても、たとえ殉教しても、必ず神は裁きを与えてくれる。その裁きとは罰のことだろうか?いいえ、それは不当な状態の人を救いだすこと、それが裁きなのです。神様の救いのことです。

裁判官、本当の裁判官だった。有能な裁判官ということ。生きるか死ぬかの相手に対した。神様の裁きも同じ。信じて、死んでもついてきてください。

もっと早く裁きをしてくれればいいのに!と思うかもしれない。この世の中、自殺がずうっと増えている。生きていくのがつらい人々。「早く神様、裁いてください」、と思う。弱い、罪深い、だから「もうちょっと待って下さい」という矛盾する考えもある。

すみやかに、神様は裁いてくれる。もう終わった。イエス様の十字架の死。裁きと救い。昔と今、あまり変わっていないではないか?と思うかもしれない。私たちは信じます、神様の救いはあったのだと。神様の救いに気付いた人、それが殉教者。心の平和。彼らの最後の手紙を読むとわかる。本当に死ぬ人の手紙なのか?と思います。先ほどの発表でも、「奥さんは死ぬ前にニッコリ笑って死んでいった」とありましたね。神の救いにふれた人。神、裁き、ピラトの裁きがあります。群衆から文句を言われ、イエス様をもし無罪にするなら、お前の罪を訴えるぞと脅迫されたピラト。今の地位を保つためにきゅうきゅうとしていた、可哀そうなピラト。被告席にいたのはイエス様ではなく、ピラトであった。

キリスト教が怖くなってきた秀吉。部下がキリシタン。弟も殺した。一人息子が残る。徳川にやられる前の秀吉の心。それは地獄のようなもの。彼自身で作っている裁き。

今日は世界宣教の日。すでにあった救い。殉教者のように、信じることによる平和。人格の完成。父さんと一緒に殉教するディエゴ君。5歳の子供というのは、一般的にわがままなもの。自分の思う通りに世の中をすすめたい、泣きわめく5歳の子が普通。5歳のディエゴ君。父は信仰があったので、人格、人間としての魅力があった。死んでもついていきたいと思わせた人格の完成。それはイエス様を信じること、全てを捨てること、によって得られる。神様にお任せする。イエス様の神様の裁き。周りの人に示していく福音宣教。

目に見えないことを、目に見えるようにする。不正と戦う、福音宣教。台風が今、来ていますが、フランシスコと呼ばれています。彼は純粋な信仰で、何も畏れない人。フランシスコと共に信仰を生きる。世の中を変えることが出来ると思います。