西郷隆盛と山形県酒田市、鶴岡市の人との交流について

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昨日、酒田市のお客様近くで、たまたま見つけた。数年前から『南洲翁遺訓』は読んでいたが、それを作成してきた山形県の方々の神社。館長?らしき人に質問してみた。

『西郷さんとキリスト教の関わりあいについて、何か知りませんか?』

すると彼は、長く話した。

『月照和尚と入水自殺をした後、奄美大島に島流しにされ、その後、薩摩に戻った後、当主が京都にのぼっても相手にされないから、と言って自分が先に京都にのぼる際、下関で当主と待ち合わせをすべきところを、何かの理由で先に京都に行ってしまったのを理由?に島流しにされ、徳の島に島流しにされ、そこでは近いから、といって、沖永良部島に遠島にされた。その時、本を持参することを許され、そして、その島で出会った長老が耶蘇教の人でいろいろ交流があった。後の『敬天愛人』の考え方も、その時の影響があったかもしれない。裏に2万点、3万点ほどの西郷隆盛に関する書類があるから、詳しくはそれを調べるといい。』

 

『敬天愛人』の思想について

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。天は人も我も、同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って、人を愛するなり」

 

私(林)は、これをみて、思い出したのは、マタイ22章の

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。

『隣人を自分のように愛しなさい。』

そして、リン神父様の言った言葉、

十字架の縦の棒は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛するように、キリスト者達が神に向かって立ち上がらなければならない事」を意味しています。また十字架の横の棒は、誰かさらに敵を排除しないで、自分のように愛するように全ての人民に向かって差し出さなければならない事を現しています。もし、十字架の縦の棒がありますが、十字架の横の棒がないならば、それは十字架ではありません。もし神を愛しても、人民を愛さないならば、それはまだ本当のキリスト者ではありません。

 

西郷隆盛の敬天愛人は、私達の十字架に通じるものがあるのではないか?