ホワン・ゴック・リン神父様の講話内容メモ(2015/3/15)

テーマ:『私たちはどのように神を愛しますか?』

 

皆さん!

 今、私たちは四旬節の中に住んでいます。では、四旬節は何ですか?聖霊の恵みと復活されるイエス・キリストが与えてくださるという命が得られるように、四旬節は悔い改めて、心を変えて、神のもとに立ち帰る時間であり、復活されるイエス・キリストの命が得られるように、四旬節は悔い改める時間であり、またはイエスの復活祭を準備して迎えるように、四旬節は特別で悔い改める時間です。

 従って、四旬節は神の愛に立ち帰る時間です。その精神の中で、神がいつも人々を愛し、人々に彼に立ち帰るように招くことを理解させるように、私たちは一緒に立って、神の言葉を聞きましょう。

 

 ルカによる福音書(15:4-7)

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか?そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める1人の罪人については悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」

 

キリストに賛美!

 

皆さん!

 今聞いた福音書は私たちに人間、特に罪人のために神の無限の愛を示してくださいます。しかし、神は群れの中で残る羊を愛することだけではなく、神も見失った羊を愛して、見つけに行ってくださいました。神はどんな羊も見失うことを望みません。神は人々のうちに誰が朽ちられることを望まないという意味です。神が人間の一人一人を愛し、気を配って世話をしてくださるからです。

 明らかに、イエスは人々、特に子供と苦しむ人々を愛してくださいます。この愛が消え去るべき愛ではなくて、昔から今までという人間の歴史全体に広がっている愛です。更に、人間は罪を犯して、神を離れた時、神がまだ人々を愛し、神に立ち帰ることを待ってくださいます。このことは私たちに神がいつも忠実に、人々を愛することを理解させます。

 聖書を通して私たちが知っていることは、最初から、愛するため、神が万物宇宙、また神に象って人間を造ってくださいました。その時、人間先祖として、アダムとイブは永遠の幸せの所というエデンの園(主の園、楽園)の中で神と共に生きられて、神の御顔を見られました。しかし、神のように賢くなりたいので、アダムとイブは神に従わない罪を犯しました。アダムとイブの罪により、彼らはエデンの園を追放されて、それから、エデンの園の入り口が閉じられて、人々は神に来る道を遮られました。自分の罪を知った後、アダムとイブは悔い改めて、神に立ち帰りたいけれども、自分自身の力でそのことを行なうことができません。

 その状況の中で、神はまだ、人間を見捨てなくて、人間を憐れんでくださいました。神がアダムとイブの罪の前に怒ったけれど、彼が人間のための無限の愛を隠すことができません。人間が神に立ち帰るチャンスを持っているように、神は道を開き、導いてくださいました。このことで私たちは、神が人間の弱さと罪の前に向けてはなくて、いつも人間と共に居られて、救ってくださることを確認しました。救いの歴史を考える時、私たちは神がいつも色々な方法で人間に来られることを知っています。宇宙万物や人間の幸せと苦しみのイベントを通して、神が人間に来られて、人間と共に居てくださいます。即ち、神のまことの居られることが、地上でイエス・キリストの生活を通して表わされました。神が人間を愛するので、人間が神の子供になるのを助けてくださり、また人間を救うように、神が一人子を地上に遣わしてくださいました。イエスを通して、神が人間の間に居てくださいます。それがインマヌエルであり、神は我々と共に居られるという意味です。イエスを通して、神が人々と人間の言葉で話して、人々に人間の生活の幸せと苦しみを分かち合ってくださいました。

 ずっと地上に住んでいて、特に三年間で救いの福音を宣べ伝える時、イエスの言葉や行いはいつも人々が天の国という幸せ国に向かうことを助けました。また、イエスの教えることやしるしを行ってくださったことは、人々に神の権能と人間のための神の無限の愛を示してくださいました。イエスは人々に神が慈悲深い父であり、いつも無限の愛で子供を待っていることを示しました。

 例えば、「見失った羊」のたとえを教えるとき(ルカ15:4-7、マタイ18:1-14)、イエスは私たちに神が豊かな慈悲深さと憐れみを持っているという良い羊飼いとして、いつも羊の群れを愛することを示しました。その良い羊飼いは九十九匹を山に残して、迷い出た一匹羊を忍耐して捜しに行きます。迷い出た羊を見つけたとき、良い羊飼いはその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて一緒に喜んでしました。

 なぜ、良い羊飼いは九十九匹を山に残して、迷い出た一匹羊を忍耐して捜しに行きますか?もし迷い出た一匹羊を捜しに行く中で、山に残している九十九匹も迷い出るならば、どうしますか?もし私たちは羊飼いであるならば、私たちは百匹羊がいるので、一匹羊を迷い出るならば、問題がないと考えるかもしれません。しかし、神にとって、そうではありません。神に対して、誰でも同じ人であり、どんな羊でも同じ羊だったのです。残す九十九匹のための、迷い出た羊は価値がないのではありません。羊飼いの前に、どんな羊も価値があることのように、神の前にどんな人も価値があります。それは神が愛し、守るし、支えてくださった価値です。

 明らかに、良い羊飼いはどんな羊も除かないで羊の群れを愛することのように、神も全ての人々を愛してくださいます。しかし、聖書の中の特別な姿を通して、神の愛と慈悲深い心と憐れみがもっと特別と具体的なことで表わされました。それは豊かな憐れみ父(放蕩息子)のたとえの父親の姿です。これは私たちに人間のための、神の無限の愛について話したというたとえです。

 豊かな憐れみ父のたとえの中で(ルカ15:1-3、11-32)、聖ルカは私たちに神がいつも子供はどんな人であっても愛してくれる豊かな憐れみの父の姿を示してくださいます。財産が分けられる後、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまいました。何もかも使い果たした時、彼は自分の罪を悔い改めて、父に立ち帰りたいのです。下の息子の心配する感じに対して、父親は怒らなくて、処罰しませんでした。遠く離れた息子を見つける時、父親は憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。更に、自分の愛する息子という放蕩息子の人品や権利が新しくなってくれる行動として、父親は彼に良い服を着せ、指輪をはめてやり、履物を履かせるように、僕たちに言いました。言えるのは、父親の豊かな憐れみ心は彼が自分の放蕩息子の全ての罪を忘れて、心配する感じることをなくなるのをさせます。彼の息子は死んでいたのに、生き帰り、いなくなっていたのに、見つかったからです。そして、この憐れみ心の為、兄が弟の立ち帰ることを受け入れるように父親が出て来て兄を宥めました。

 ここで、兄は人々がいつも自分自身で信心や聖なる人であり、罪人が救われなくて、死ぬことを考えるというファリサイ派の人々や律法学者となりました。いつも父親と共に住んでいるけれども、彼の心や愛は他の所に置いていました。いつも父親の命令に従ったのに、彼が愛のためではなく、義務だけのためのです。彼は「私の弟」と呼ばなくて、父親に「あなたのあの息子」として呼ばれました。彼は謝った弟を慈しまなくて、また彼も父親の息子を失った苦しむことを分かち合いませんでした。明らかに、兄の態度は私たちに彼が自分自身を愛する人であり、偽善者であるのを示しました。そして、このことは私たちに豊かな憐れみ父のたとえが神の無限の愛を表わされたという最高の姿を示しました。他の神々ではなく、神だけ人間を絶対に愛して、イエス・キリストの苦難によって、いつも人間が神のもとに立ち帰って、救われることを望んでいます。

 このように、分かち合った全てのことを通して、私たちは神がいつも人間を愛してくださり、人間は神を裏切るし、離れるし、また罪を犯したのに、神がまだ人間を愛してくださいます。人間が救われて、神に立ち返ることを導くように、神がいつも色々な方法を見つけてくださいます。人間はどんな人であっても、全ての人々は神の前に特別な価値を持っています。

 従って、四旬節は悔い改めて、神に立ち返る態度ではなく、最初のことは人間のための、神の無限の愛を認識することです。神の赦す愛に立ち返るように、私たち誰でもこのことを認識しなければなりません。そのため、神に立ち帰って、神が人間を愛してくださることのように、神への愛を証明するように、私たちは何をしなければなりませんか?私たちは、「私は神を愛し、神に立ち返ろう!」と言うとか考えるとかではなく、神に立ち返るように、私たちは具体的な行動を持たなければなりません。その行動は何ですか?悔い改めて、神に立ち返るように私たちは何をしなければなりませんか?

 皆さん!

毎年、四旬節が来られる時、神に立ち返るように、全教会は私たちに悔い改めることを実行することを招きます。悔い改めることは何ですか?悔い改めることは犯した罪を勇敢と謙虚で認めます。それは罪を避けるように、神の戒律(掟)に決心して従って生きることです。他の意味で、悔い改めることは神のもとに立ち帰るように、罪の生活を捨てる態度です。そのため、悔い改めることを実行するために、私たちは何をしなければなりませんか?聖書によると、悔い改めることを実行するために、全教会はキリスト者たちに三つのことを実行することを招きます。それが、祈り、断食することと善を行うことです(マタイ6:1-6、16-18)。この三つのことの目的は私たちが自分の罪を知って、悔い改めることを通して、神のもとに立ち帰って、他の人々に結ばれるのを助けることです。むしろ、この三つのことを心から実行することは私たちの一人一人が自分の神の愛を示すことです。

 

 祈りとはなんですか?

祈りは神が人間は悪いことや悪霊や罪などの誘惑から解放させることを助けてくださるように、神と共に話して、自分の心は神に向かうことです。イエスはいつも神に祈ります。絶えず祈りによって、悪魔から誘惑を受けられるのに、イエスが悪魔の誘惑に打ち勝ちました。ただ(だから)、心を尽くして祈るだけ、私たちは誘惑に打ち勝って、神に喜ばれることができる(神の御心に適い)と思います。

 

 断食することは何ですか?

常識によると、断食するは肉を食べなくて、ちょっとだけ料理を食べることです。しかし、まことの断食することは自分自身を愛することとか貪欲とか放縦や深酒や生活を捨てることです。そして、正しい断食することは神と他の人々の前に謙虚に生きるように、私たちが自分自身の真理について認識することです。

 

 善を行うことは何ですか?

善を行うことは貧しい人々に物質を分かち合うことです。また、善を行うことは助けることを必要がある人々がもっと良い生活を持つように、彼らを助けることです。イエスによると、他の人々を助ける時、私たちは神にしてくれたことです(マタイ25:40)。むしろ、愛することで、善を行うことは神の御心に適うことです。

 

 言えるのは、その三つのこと(祈り-断食-善を行うこと)を実行することは私たちが神に対して愛を示すという方法であることだけではなく、私たちはもっと強い信仰を持っていることを助けることです。これは三つの別々ことではなく、互いに補いという唯一のことです。というのは、断食が祈りの魂であり、善を行うことが断食の生活です。三つのことのうちの一つだけを実行するとか、全ての三つのことを実行しないならば、私たちの悔い改めることは意味がありません。(それが何もしないという意味です。)祈る者は断食しなければならない、断食する者は施しをしなければなりません。

 明らかに、祈りや断食や施しを実行することは四旬節の中の大切なことです。しかし、善を行うことや祈りや断食を実行する時、私たちは一つの大切なことを注意しなければなりません。それが偽善することです。昔、ファリサイ派の人々と律法学者たちはそのことも行いました。しかし、悔い改めることの代わりに、全ての人に見せて、誉めるために、彼らは善を行うことや祈りや断食を行いました。善を行うことや祈りや断食を実行する時、大切なことが神と他の人々を愛し、また神に本当に立ち帰ることのため、私たちは善を行うことや祈りや断食を実行します。その時、私たちの四旬節の行うことが意味になると思います。言えるのは、毎年の四旬節の中で、私たちも善を行うことや祈りや断食を実行しますが、私たちは自分自身が良く変わるのを感じるかどうか。答えは私たち一人一人の生活次第です。

 従って、日々の生活の中で、弱いことと罪の誘惑に打ち勝つ、神に立ち帰るように、私たちは神が知恵を力を与えてくださることを願っていきましょう。また、復活されるイエスを相応しく迎えられるように、私たちもこの四旬節の中で、神の意志に従い、神が私たちの心を変えてくださるように祈りましょう。

 皆さん!

今、私たちの為の、神が与えてくださる愛を感謝し、この聖なる四旬節の中で、決心して自分自身を悔い改めて、神の赦す愛に立ち帰るように、私たちは一緒に一つの歌を歌っていきましょう。