信徒会長として初心表明

1.私は自分の信仰における自信がありません。この信仰がどう役に立つのか、どう伝えられるか、それに基づく活動が神様のみ旨にかなっていることなのか、よくわかっていません。今回カトリック教会の信徒会長になり、信者として伝えたいことは、イエス様の言葉、彼の勇気、元気、精神や魂、彼の十字架、生きざま、そして復活です。教会というものは時代と共に変化してきました。イエス・キリストがなくなってから2000年ものあいだ人類は数えきれないほどの戦争を繰り返し、災害を経験し、今に至っています。しかし、イエス・キリストの愛をあらわす福音は、どんな時でも、どんな時代においても不変なので、安心して伝えられます。私は信者として福音を信じ、会長としてそれを伝えていきたいと思っています。

2.教会に来る人々は、親に連れられてくる子供たち以外は皆、自分の意思に従っていると思います。教会というのはとても便利な場所です。信者であろうがなかろうが、仏教徒でもイスラム教徒でも、黒人でも白人でも、イエス・キリストを求めている人であれば誰でも来ることが出来ます。しかし、イエス様は言いました。「2人また、3人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる(マタイ18・20)」。教会に来て1人にならないで頂きたい。心を開いてつながって頂きたい。私たちはブドウの枝なのです。教会に来ない人がいます。正直言って、来たくない人は来なくてもいいと私は思っています。しかし、来たいのに来れないひとがいます。家庭の事情、仕事の事情、移動手段がない人、病気や入院している人。私たち、罪びとは、ご聖体を頂いてその罪を許され清められているのですから、教会を出て、行きましょう。一緒に祈らなくてもよい。祈る時は1人部屋にこもって祈りましょう。教会に来たくても来れない人に会いに行き、心を開いて対話しましょう。

3.マザーテレサは言いました。「貧しい人の中でも、最も貧しい人に、私は仕える」。イエス・キリストは言いました。「第1の者になろうと望む者は、いちばん後の者となり、またみなに仕える者とならなければならない。」そして、イエスは1人の幼子を弟子たちの真ん中に立たせ、その子を抱き寄せて仰せになった。「わたしの名の故に、このような幼子の1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マルコ9・35-37)私は、元気で健康的な人に奉仕するのではなく、この教会が、苦しんでいる方々でも来れる開かれた場所であるが故、奉仕したいと思います。