年間第23主日

自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、

だれであれ、わたしの弟子ではない。

第一朗読、第2朗読、福音は以下のリンクを参照

http://seseragi-sc.jp/xe/181407

 

プッポ神父様の説教(9月8日に取ったメモ原文。修正は最小限にしてます)

 「わたしにふさわしくない」とは強い言葉。憎む(家族)と愛する(イエス)ということは、両方とも大事にすることの意味である。ここに誤解を招いてしまう。第一に神様(BESTと尽くして)、第2に同じように家族。この優先順位には徹底さを求める。神に伴う十字架を背負わなければついていけない。社会の方向、自己中心の方向ではダメ。神が中心であり、周りの人への愛が次。人生における唯一の力はイエス様。人は限界のかたまりであり、自分の富はイエス様。それはイエス様が求めるもの、犠牲のこと。

 病者の塗油。初代教会の油。困難、疲れ、不理解、限界、何でも共にイエス様のところで背負っている。自分達に実現させる。人々を癒すイエス様。出会った病者、困難を背負うもの。それらを、仕方ないものではなく、ささげものとする。生活における不便さ、それを捧げるのが私達の姿勢。年を取ると、いろいろ出来なくなる。社会も自分のことも理解出来ない。病者の塗油を通して、わたしたちはダメなものと考えて欲しくない、人間として成長したものであり、下準備のできた者、人間としての道をよく歩む。出来る、出来ないではなく、ささげていく。

 教会に来れない人。いろいろな限界、理由がある、でも不幸にならないで。それは十字架。家であっても、人であっても、わたしを受け入れてくれるところ、信じるところ、それがミサ。イエス様が必ず私たちのところに来ている。全教会があそこにあって、イエス様のところにいけない。。。というのはありえない。心の中です。教会に来れない、出来ない、ではなく、心の中を見つめる。心の中にいるイエス様に、私のことを支えてください、と頼みましょう。

 ミサとは、イエス様の受難と復活。病者の塗油にて、恵みに感謝。私は72歳、悪くない。「早く行かせてください」という祈り、理解出来ます。イエス様でさえ、そうだった。でも道は道。「成し遂げた」というまで、転んでは立ち上がった。苦しくて堪らないイエス様。奉仕する時、それを行う人によって実現される。天国に行く準備、イタイイタイと出発して、ハレルヤと着陸する。もうだめだ!ではなく、神に捧げる祈りにかえる。人生の感謝にする。

 社会の問題、これ以下は問題ない(若さのこと)とよく言われる。古くなった人は一人もいない。人生を豊かに人生を仕上げて、神との一致。物になって欲しくない。古くなったら役にたたない、ではない。その素晴らしさ、信仰を生かして自分達のためにつかう。これでおしまい、ではなく、神と分かち合うことのできる素晴らしさを見つめる。尊敬をもって。