報告_二本松の幼稚園を訪問しての感想

+主の平和が皆様とありますように!

『是非、皆さんに報告をお願いします』、と『福島やさい畑』の柳沼さんに言われたので、以下を報告させて頂きます。

 

 本日(2015年5月28日)私は、福島県二本松市のカトリック幼稚園とプロテスタント幼稚園の2箇所を柳沼さん(福島やさい畑の代表者)と一緒に訪問しました。理由は2015年4月7日に絵本3百冊を別府在住のある女性から寄付をしたいとの要望があり、柳沼さんに、その寄付先を探して頂き、決まった寄付先がその2つの幼稚園だったからです。私の訪問の意図は、寄付先の顔というか、彼らの気持ちを、寄付した方に伝えようという一念でした。

 カトリック幼稚園(二本松)におきましては園長である佐藤さんが丁寧に園内を案内してくれて、震災で破損した床の修理、壁の修理、外気が入らないように(放射能汚染)窓、サッシを改良したり、濃度の高い汚染水がたまっていた側溝に蓋をしたり、砂場の砂を県外から購入して、外気が当たらないように囲いをしたり、冷暖房の設備、絵本も含めて、寄付によって現在の運営が成り立っているという感謝の言葉だった。現在、幼児が80何名ほど在籍している。『震災のおかげ』で、逆に幼稚園が立派に見えるようになった。しかし、問題はまだまだ存在し、解決する見込みが立っていない。それは仮設に関わる事が要因。二本松市には浪江町に住んでいた住民の仮設住宅が11箇所あり、まだそこを出れない人が多い。子供の家族やジジババが仮設に住んでいることがあるので、いろんな面で意見がぶつかる。例えば牛乳の問題。子供に牛乳を飲ませるべきだとか、豆乳でないと、県外品でないと、といった議論や、水の問題。未だに浪江町の人々は水道水を飲めないと信じていて、ペットボトルの水しか飲まない。子供にどういう水を飲ませるべきか、とか。外で遊ばせる、遊ばせないの問題。やはり仮設に関わる人達の先入観というか、感覚、イメージが、仮設と直接関わっていない人達とは異なるので、議論や問題になる場合が多い。また、浪江町の公務員が震災直後、放射能の情報を知ると、住民に知らせる前に自分達が先に避難した話など。幼稚園の先生達は毎朝、園児の接触する器具や木、手すりなどを全て磨くことをしており、4年間通して毎朝磨かれたイチョウの幹は、コンクリート製の木の幹のようにすべすべで光っていた。庭にある放射線のモニター(福島県内の全ての学校に設置)は0.152シーベルトを示していて、他の場所(会津など)の10倍の濃度である。

 プロテスタント教会(日本基督教団)の幼稚園においては、佐原牧師(女性)が園長であり、説明をしてくれました。この4年と2ヶ月で子供達は入れ替わり、幼稚園にいる子供達は、既に震災を知らない。知っている子供達は卒園して小学校に行ってしまった。ですから以前は津波の絵(真っ黒な海など)を書いたりしていたが、今の園児は津波を理解していない。カトリックの活動である「福島やさい畑」には、感心している。仮設に残された人々が課題であり、声掛けをしているところに感心を抱いている。二本松市に浪江町の仮設が11箇所あることを市民の中には知らない人もいる。『私達も前向きにやっていかないとダメでしょ!』との若い先生の声。実際に周りを見ると、被災していることには全く気が付かない。しかし、心の問題。放射能、仮設に絡むと、いろいろ、まだまだ問題になることが多い。

 

 私(林)の所感

  • どうして福島に心を寄せるのか?
  • いつまで、仮設に住む人に協力を続けなければならないのか?
  • 何を子供達に伝えなければならないのか?
  • いったい何に感動し、揺さぶられているのか? 

 やはり、現地に行かないとわからないのは、人の心であり、気持ちの温度差である。これから最低5年は続けなければならないと、6人いる福島やさい畑のスタッフに柳沼さんは声掛けをしたそうである。街の風景、道を歩く人々、表情を私が見る限り、普通の状態である。別府と何も変わらない。しかし子供達を預かる幼稚園の責任者に話を聞くと、仮設に住む人達には先行きが見えず、放射能は減りつつも他の場所とは10倍の差があり、毎日の除染があり、たくましく明るく遊ぶ子供達を見守る親の気持ちは、震災の影響で意見がバラバラ。大変そうでした。

 そして、『来てくれてありがとう』という声。是非、『是非』、皆様に福島の事を忘れないでね!と『報告してください』と頼む柳沼さん。自分を含めて、震災の意識がまったく薄れている別府の方々。なんとかして、今後も協力を続けたいと思いますので、皆さんのご協力を宜しくお願いいたします。

  

以上