ルカ13・14-16

ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛たちやろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いていくではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年ものあいだサタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」(ルカ13・14-16)

 

釈迦はバラモンの破壊者であって、キリストとパウロはユダヤ教の破壊者であった。ダンテとサボナローラとはローマ・カトリック教会を破壊し、ブラウンとウェスレーとジョージ・フォックスとは英国監督教会を破壊した。破壊することは時と場合によっては決して悪いことでないだけでなく、はなはだ必要なことである。もし西郷南洲や大久保甲東が旧幕府代の日本の社会を破壊しなかったならどうであったろう。私たち日本人は今日このごろもなお中古時代の迷夢のうちに昏睡していたのではあるまいか。破壊を恐れるのは老人根性である。進歩を愛する者は、正当な破壊を歓迎すべきはずである。(内村鑑三、独短、一日一生5-30)

 

別府教会もいつか破壊される時がくるかもしれない。時代は移り変わろうが、福音は不変である、聖徒の交わり、共同体も不変である。どんな時でも、どんな場合でもイエスキリストの精神、生きざま、そして復活と愛は人類の救いだと思う。「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。(マタイ24章6)」。人類は戦争を起こすものらしい。しかし、「最後まで耐え忍ぶものは救われる。(マタイ24・13)」。とも言われる。大切なのはイエスキリストの復活を信じて耐え忍んで、彼の言葉に従うことだと思う。(林、2013/5/30、台南)