ローマの信徒への手紙6・3-5

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちの洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(ローマ6・3-5)

 

キリストに同化された者、キリストの活ける体の一部分となった者、その困苦(くるしみ)と歓喜(よろこび)と、その恥辱(はずかしめ)と栄光(さかえ)と、その死と復活とを、彼の内にあって彼と共に父なる神から分与された者、これがキリスト信者である。「信じる」とはこの場合においては知識的に是認することではない。また感情的に信頼することでもない。キリストを信じるとは彼の神格の内に私の人格を投入することである。これがすなわち信の極みであって、キリストは私たちにこのような信仰を要求なさるのである。キリストが神であり、霊の宇宙であり、私たちがその霊界の一部分となることができて、初めて私たちの聖化も満足に行なわれ、またキリストの光は私たちを通して世に顕われるのである。(内村鑑三、感想、一日一生5/31)

 

福島県南相馬市にて家族を失ったキリスト信者の話を聞いた。わたしなどの信仰が彼を癒すなんてとても出来ない。イエスキリストの復活のみが希望であり、救いなのだろうと思わせて頂いた。私も、私の愛する家族も、いつかはこの世を去る運命である。その悲しみに耐えることなど出来ないかもしれない。しかし、そこにイエス・キリストの愛があり、その形が復活だと思う。我々はイエス・キリストの復活を信じて救われるのであり、それを広めることは大切な福音の一つだと思う。まずは家族に、そして友人に伝えていきたい。(2013/5/31、桃園)