詩篇37・25

若い時にも老いた今も、わたしは見ていない。主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。(詩篇37・25)

 

キリスト教は貧者を慰めるのに、仏教のいわゆる「万物皆空」という麻酔的教義をもって行うものではない。キリスト教は世をあきらめさせないで世に勝たせるものである。富むことと貧しいことは前世の定めではなくて、今世における個人的境遇である。貧は身体の疾病と同じく、これを治すことができなければ喜んで忍ぶべきものである。私の貧しさが、もし私の怠惰放蕩から出たものならば、私は今から勤勉節険につとめて浪費した富を回復すべきである。天は自ら助けるものを助ける。どんな放蕩児であっても、どんな惰け(なまけ)者であっても、ひとたび翻って宇宙の大道に従い、手足を労し額に汗するならば、天は彼をも見捨てられない。貧は運命ではないので、私たちは手をつかねてこれに甘んじてはならない。働けよ、働けよ。正直な仕事はどんなに下等な仕事であるといっても、これを軽んじてはならない。(内村鑑三、慰め、一日一生6-1)

 

 イエスキリストは山上の説教にて、「富は天に積みなさい」(マタイ6・19~)といっています。しかし、実際には安定した衣食住と仕事があること、それは良き日々を過ごすのに大切なことです。「施しを行うときは、右手で行うことを左手に知らせるな」(マタイ6・3)ともイエス様は言われた。恵まれない衣食住の境遇の方々には密に手を差し伸べるべきであり、仕事のない方々には仕事を分けてあげるべきなんだろうと思う。(林、2013/6/1、別府)