マルコ6・1-3

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。(マルコ6・1-3)

 

彼は法王、監督、牧師、宣教師、神学博士の類ではなかった。彼はかつて頭に僧冠を戴いたことはなく、また身に僧衣を着けたこともない。すなわち彼は今日世にいう宗教家ではない。彼はかつて彼の信仰のために俸給を受けたことはない。彼はナザレの一平民で、彼の父の業を継いで大工を職としていたものである。したがって彼は直感的に神を知った者であって、神学校または哲学館に彼の宗教的知識を養ったものではない。私たちが彼を尊敬するのは彼が大平民であったからである。(内村鑑三、独短、6-2)

 

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14・26)。この言葉の意味は、それらを憎めば弟子になるということだろうか?いいやそんなことはないだろうと思う。そう思いたい。きっと「憎む」という意味合いが違うのだろう。イエス様は実家に戻って、新しい自分を受け入れてもらえなかったが、それはその世の事。気にせず自分の道を全うした。イエスの兄弟(ヤコブ)も生前はイエスの教えを信じていなかったが、死後は教団に合流して指導的役割を担った。ペトロだってイエス様のことも3回も知らないと言った。イエスキリストの事は十字架、そして復活を受け入れないと信じたことにはならない。(林、2013/6/2、別府)