テトス3・3-5

わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自身の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。(テトス3・3-5)

 

私は私が好んで救われたのではない、私は私の意に逆らって救われたのである。私は現世を愛した。ところが神は現世における私のすべての企図(くわだて)を破壊なさって私に来世を望まざるをえないようになさった。私は人に愛されることを希(ねが)った。ところが神は多くの敵人を私に送って、私に人類について失望させ、神に頼らざるをえないようになさった。もし私の生涯が私の望んだ通りのものであったならば、私は今も神もなく来世もない、普通の俗人であったであろう。私は神によってやむを得ず神の救済(すくい)にあずかったものである。このため私は私の救われたことに関してなんの誇るところもない者である。(内村鑑三、救済、一日一生6/4)

 

私の信仰は残念ながら、願ってもいない現実から、主の言葉に救われた、救われている事、を起点としている。その点においては、あまり人に話したくないし、誇りにも思っていない。親は子供に現世を良く過ごすために教育・しつけを施すものだが、主の言葉は逆境に立たないと、失望の状態でないと分からないことが多い。苦境に立つ人の気持ちは苦境に立ったことのある人でないとわからないと思う。(林、2013/6/4、名古屋)