ペトロの手紙1、4・1-2

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。(ペトロの手紙1、4・1-2)

 

死は犠牲である。同時にまた贖罪である。何びとであっても己ひとりのために生き、また己ひとりのために死ぬ者はいない。人は死んで幾分か世の罪を贖い、その犠牲となって神の祭壇の上に献げられるのである。これは実に感謝すべきことである。死の苦痛は決して無益の苦痛ではない。これによって己の罪が洗われるだけでなく、また世の罪が幾分でも除かれるのである。そしていうまでもなく、死の贖罪力は死者の品性いかんによって増減するのである。義者(ただしきもの)の死は多くの罪を贖い、悪者(あしきもの)の死は自己の罪のほか贖うところははなはだわずかである。人は聖(きよ)くなれば聖くなるだけその死をもってこの世の罪を贖うことができるのである。あるいは家の罪を、あるいは社会の罪を、あるいは国の罪を、あるいは世界の罪を、人には彼の品位いかんによって担いまた贖うことができるのである。死は実に人がこの世においてなすことのできる最大事業である。(内村鑑三、復活、一日一生6/7)

 

我々の体は死ぬ運命を持つと思う。そしてそこまでの生き方と死に方は人それぞれである。生き方においてはやり直しがありうるかもしれないが、死と死に方には、あまり機会がないかもしれない。イエスキリストは肉に苦しみを受けて生きた。その参考は快楽に走りがちな私達の肉の罪を悔い改めるのによいことなのだと思う。(林、6/7、名古屋)