ルカによる福音書5・30-33

ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5・30-33)

 

キリストは罪人の友であるという、まことにその通りである。キリストは税史(みつぎとり)、罪ある者の友であった。しかしながら罪人の友であるというのは悪人の友であるということではない。キリストは悪人の友ではない。人は悪を行ってキリストの敵にとなるのである。キリストが罪人の友であるということは、彼は世が罪人と称している者の友であるということである。すなわち自ら罪を悔いて神に赦された者、あるいは身に罪を犯したことがなくても、世の慣習習俗に従わなかったために罪人として世に目される者、あるいは人の猜(ねた)むところとなって罪はないのに罪があるとよばれる者・・・・・・キリストはこういう罪人の友であるということである。すなわちファリサイ人(びと)が罪人とみなしている者の友であるということである。(内村鑑三、感想、一日一生6/8)

 

2004年に信者になってから、自分自身に気付くのは「罪の重さ」。自分は罪を繰り返さないと生きられないのかという「やるせない気持ち」と「主よ憐れみたまえ」という気持ち、それを実際に神父様に告解して改心する勇気、そして許されたあとのすがすがしさ。キリスト教というものが、「過去を主イエスにまかせ、今を生きる。」そういう宗教であることを感じる。(林、2013/6/8、別府)