詩編103・11-14

天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、わたしたちの背きを遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。主はわたしたちを、どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを、御心に留めておられる。(詩篇103・11-14)

 

私は未だよく神の何者であるかを知らない、けれどもその私の悪を憎まれるのに優って私の善を愛して下さる者なのかをあえて疑うべきではない。私が終末(おわり)の裁判(さばき)の日において神の前に立ったとき、私の悲嘆は私の悪の多いことではなくて、私の善の少ないことであろう。そして私はその時私の予想に反して、愛なる神が私の犯したすべての悪をお忘れになり、ただ私の行なった些少(さしょう)の善をのみ記憶しておられるのを発見して驚愕の念に堪えないであろう。「神の恩恵(めぐみ)の広いことは海の広いように広い」。私たちは神の忿度(いかり)についてのみ念ずるのは誤りである。神は忿度の神ではなく、恩恵の神である。すなわち赦免(ゆるし)の神である。(内村鑑三、所感、一日一生6/11)

 

私の行っていることは、実に塵のごとし事柄だと思う。ひとつひとつ、取るに足りないことを行い、実にならないところに水や栄養を撒いているのかもしれない。神の慈しみは極めて大きい。仰ぎ見るしかなく、感謝するばかりである。例えば子供の成長、例えば親の愛、生涯を宣教にささげている司牧者達、億万の方々に行き渡る食糧と水、苦しんでいる方々への救い、などなど、などなど。(林、2013/6/11、別府)