イザヤ書61・1-3

主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。(イザヤ書61・1-3)

 

私は私に口があることを感謝する、私はこれをもって神の福音を宣べよう。私は私に手があることを感謝する、私はこれをもって神の福音を伝えよう。私は私に足があることを感謝する、私はこれをもって神の福音を運搬(はこ)ぼう。私は福音のために造られる。私はその伝播(でんぱん)の器具であるべきである。(内村鑑三、所感、一日一生6/12)

 

福音こそが救いである。信仰は時代と共に、時と場合によって浅くなり、深くなり、間違った方向に使われ、どうも不安定のようである。こんな軽薄な時代に生きる私の信仰などを後世に伝えたところで、その時代の困難に耐えることは出来ない可能性が高いと思う。しかし福音は絶対的である。イエスキリストの心、言葉、生き方、死に方、愛、勇気、そして復活、それはいかなる時代においても、どんな時でも永久不変なものであり、これこそ家族に、友人に、周りの人に伝えていくべきものだと思う。(林、2013/6/12、別府)