ルカ15・21-23

息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕達に言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」(ルカによる福音書15・21-23)

 

あなたは言おうとする、「私のような罪人(つみびと)がどうして無限の愛を受けることができようか。私はまず己(おのれ)を清くして、その後に神の愛をもって充(み)たされるべきである」と。ああ誰があなたを清くできるであろうか。あなたは己を清められなかった。あなたを清めることのできるものはただ神のみ。あなたの清まるのを待って神に来ようとすれば、永遠までまってもあなたは神にこないだろう。母の手から離れて泥中に陥った小児は、己を洗浄するまで母のもとに帰らないだろうか。泥衣(でいい)のまま泣いて母のもとに来るのではないか。そして母はその子が早く来なかったことを怒り、直ちに新衣を取って無知の小児を装うのではないか。永遠の慈母もまたそうされるのではないだろうか。(内村鑑三、求安、一日一生6/13)

 

私は信者になってから思うことは、キリスト教は罪深い自分を気づかせるなあ、という点。そして告解という勇気を必要とする秘跡によって過去を主に任せ、今日を生きる。明日を生きるという未来指向の宗教だなとも思う。「虫が良い」(自分勝手)とよく思うが、自分の罪は主に任せている。後悔をしない。(林、2013/6/13、別府)