ペトロの手紙1、1・5-6

あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、こころから喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが。(ペトロの手紙1、1・5-6)

 

神の聖業(みしごと)は今なおその半途(なかば)にあるのである。彼は今その畑に永生の種を播かれつつあるのである。今より後に復活があり、地の改造があり、大審判があって、その後に彼の救済(すくい)の聖業は終わり、そして最後に新しい天と地との実現を見るのである。言(ことば)によって言う、「神の水車は転(めぐ)ることゆるやかである。しかし挽くことは精巧である」と。神はお急ぎにならない、多くの時をとられる。彼の眼には千年も一日のようである。万年も長い時ではない。しかも彼はその愛する者をお忘れにならない。その始めた善工(よきわざ)を終わらずにはおやめにならない。人の眼から見ると今より救済の結末、完成された天地の実現を待つのは耐えがたい忍耐ではあるが、しかし神は人が明日(あす)を期するようにその福(さいわ)いなる時をお待ちになるのである。(内村鑑三、復活、6/16)

 

自分は喜んでいるか?苦しみと喜びは対であり、苦しみを乗り越えた後に喜びが与えられる(山下神父様、6/15、野津)と聞いた。神はわたしたちを愛してくださる、その喜びを伝えよう(プッポ神父様、6/9)と聞いたが、やはり苦しみの中の忍耐が大切なような気がする。神様はどれだけ我々が苦しんでいるかを見ているのではなく、どうやってそこから立ちあがったのかを見ておられる。(山下神父様、6/15、野津)ということである。今日は父の日、おじさんとして、その喜び方法を伝えたい(林、2013/6/16、別府)