エフェソの信徒への手紙2・14-16

実に、キリストはわたしたちの平和であります。1つのものを1つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

 

ここにどんな手段をもって行っても怒らすことのできないただひとりの人があった。棘の冠をかぶらせても、手のひらで打っても、つばきしても、十字架につけても、怒らすことのできないひとりの人があった。憤怒(いかり)の颶風(はやて)が吹きたいだけ吹いても、この愛の厳(いわ)を動かすことはできなかった。憎悪(にくみ)の潮(うしお)が来たいだけ来ても、この愛の堤を崩すことはできなかった。キリストの死は憎悪に対する愛の勝利であった。ここに憎悪は非常の勢力をもって愛と衝突して愛の撃退するところになった。今からのち憎悪はその猛威を誇ることはできない。すでに一回人の子の打ち破るところとなって、憎悪の殲滅(せんめつ)はすでに宣告された。キリストの愛の死によって世界平和の端緒は開かれた。キリストは十字架に上って、愛は最高の位についた。(内村鑑三、研、一日一生6/18)

 

キリストの平和とは、どんなことがあっても大丈夫ということ。戦争は起こるだろうし(マタイ24・6)、今までも数えきれないほど行われてきた。しかし、それは生みの苦しみの始まりにすぎない(マタイ24・8)。私は今自分が持つ信仰により、将来迎えなければならない苦難に対し耐えられる自信がない。自分の家族が耐えられるとも、とても思えない。だからこそ、イエス様の生き方、死に方、復活、愛、勇気を伝えなければならない。それらがなければ平和でいられることが難しい、と信じているからです。(林、2013/6/17、別府)