年間第11主日のミサ説教

第1朗読:サムエル記下12・7~10・13

第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙2・16,19~21

福音:ルカによる福音書7・36~8・3 李神父様

赦しと慈しみについて。ある話がある。赦しの秘跡において、告解を神父様にきいてもらい、3回祈りなさいという指示を受けた信者。「それくらいで赦されるのか?」と反発したという。悪いことをして許される。「ごめんなさい」を10回以上言わないと気がすまない気がする。はたして人間の罪の深さと神の赦しのどちらが大きいのだろうか?どちらが大切なのか?

ファリサイ派の人々とは、自分は特別だと思っている。自分はエリートだと思っている。自分は罪を犯さないと思っている。自分は断食、償いを果たしていると思っている。自分は清い状態だと思っている。自分は神の赦しを必要としていないと思っている。

罪深い女とは、自分は悪いと思っている。自分は弱いと思っている。自分はイエスの足元で慈しみを乞い願う。自分は神の赦しがなければ生きていけない。

福音にて、イエスの金貸しの話。50と500の借金を帳消しにしてもらったら、どちらの借金主がより喜ぶのか?

人は罪を犯すもの。人はあやまちを犯すもの。人は嘘をつくもの。人はいじめたりするもの。人は悪いことをするもの(神に対しても)。神を冒涜した罪は赦されない。イエスは十字架につけられ、生贄としてささげられた。

我々はいつ神に愛されているのか?何かうまくいく時によく思う。失敗して、弱さをしり、罪深さを知り、神の前において塵のような存在であることを知り、恵みを頂いている実感。弱く、小さい自分を赦して生かしてくれる神の愛。

自分がどのような者であるのか?をよく思い巡らせましょう。

 

アダルトビデオの問題がある。罪深い女というのは、これに出演している人のことだろうか?それらを見ている人も同罪だと思う。我々には彼女らに石を投げつける権利はない。(林、2013/6/20、別府)