列王記上19・11-12

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

 

聖霊の充分な降臨は当人の全生涯にわたる神の聖働(せいどう)である。この不完全でまた小さい私は、一時に聖(きよ)い窮(かぎ)りない神の霊を受けることはできない。初めに苗、次に穂が出て、穂の中に熟した殻を結ぶと言い(マコ4・28)、誠命(いましめ)に誠命を加え、法則に法則を加え、此処(ここ)にも少し、彼処(かしこ)にも少し教えるという(イザ28・10)。健全な聖霊の降臨はゆるやかな降臨である。私たちの願うべきことは、その一時に迅風のように降らずに、永く軟風のようにそそぐことである。雷火のように臨まずに、朝の露のように潤すことである。万一やむをえない場合のほかは、私に急激な変化をもたらさないことである。(内村鑑三、6/26)

 

東日本大震災の後、被災している親戚を訪問して思った。「私の信仰など、この人達の役に立たない。」実際に別府に大地震が起こり、自分の家族の全員、家、仕事を失い、目の前が真っ暗な状態の時に、今のこの軽々しい信仰が直接役に立つとは到底思えない。その時にイエス様の生き様と愛、そして復活が救いであること、希望であることをより深く痛感するのだろうと感じている。伝えるべきは福音。つなげるべきは共同体。(林、2013/6/26、岩手)