コリント人への手紙1,1・22-24

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

 

パウロは言う、神は愚者をもって智者を辱めると。宗教家は神と人との間に立つ取引人であるから、彼は自己(おのれ)の智慧をもってこの地位に立とうと願ってはならないのである。大宗教家が怜悧な人には少なく、かえって朴訥(ぼくとつ)な人に多い理由は、まさにこの点にあることと信じるのである。ある論者のように、ルターをもって先見博聞の人とみなすようなことは、大いなる誤謬(あやまり)である。彼の事業は神の事業であって、彼が偉大であった理由は、ひとえに彼が自ら力のないことを覚(さと)り全く神には依頼したことによるのである。(内村鑑三、6/28)

 

仏教書は、わかりやすく素晴らしい教えが多いと思う。反対に聖書はわかりにくい。新約聖書はイエスキリストの事を伝えているものだと思うが、彼のことをただの歴史上の人物として考えると、パウロの言葉を受け入れることは難しいと思う。イエスキリストは復活し、我々の中に心の友として生きていること。それを信じられない人には聖書はつまらないものではないだろうか?(林、2013/6/28、東京)