マタイによる福音書5・44-45

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。

 

愛、愛、私たちが希(ねが)い求めるべきものはこれである。権能(ちから)はいらない、あるとはなはだ危険である。智慧はいらない、あるとかえって私たちを迷わす、要るのは愛である。敵を倒すための権能ではない、私を倒そうとする敵を愛する愛である。これが私たちの最も要求すべきものである。私たちキリスト信者は権能をもって自らを守ろうとしない。「愛のうちに恐怖(おそれ)はない、全き愛は恐怖を除く」のであるから、私たちは愛をもって敵に向かおうとする。私たちは権能の足りないことを嘆かない。愛の足りないのを悲しむ。愛をもって溢れていさえすれば、天上天下怖(おそ)れるべきものは一つもない。(内村鑑三、6/29)

 

いままで数えきれないほどの戦争が起こったが、その時キリスト者は敵を愛して戦場へ向かったのだろうか。私はアフリカで部族闘争の最中にいた経験を持つ(1994年2月、ガーナのコンコンバとナヌンバの紛争、青年海外協力隊に在籍時)

http://www.onwar.com/aced/nation/gap/ghana/fghana1994.htm

私のクラス(スンヤニ高校の物理クラス)の中で、その地域の生徒がいなくなる。私は何も出来ないでいた。彼らは生まれたばかりの時に、顔に部族特有の傷を入れるので、部族を否定することは出来ない。私は部族闘争に関与されるのを恐怖した。その生徒が匿ってくれと私の家に来ることを非常に恐れた。勇気をもって人をかくまった神父様が殺されるニュースを新聞で目のあたりにした。言うは易く行なうは難し。その神父様のことを思い巡らしたいと思う。(林、2013/6/29、東京)