マタイによる福音書19・16-17

さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

 

何を善というかとの問題に対して、キリストは「善とは神である」とお答えになった。孝も善なり、仁も善なり、しかし孝も仁も善の結果であって、善そのものは神である。神を知ることは善人となることである。善を学ぶことは神に近づくことである。善を求めないで神を知ることはできない、神を知らないで善であることはできない。宗教とは道徳、行いと信仰とは同一物の両面であり、一を去って他を知ることはできない。聖書は善人を「神と共に歩む者」(創世記5・22)とした。神を離れて偶像に仕えるのは善を去って悪を行うことである。すなわち悪を行うのは真正(まこと)の偶像崇拝である。キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、義を重んじ、正(ただしき)を求めるものは、神の子どもであってイスラエルの世嗣となるのである。(内村鑑三、7/2)

 

「互いに愛し合いなさい」これが最も大切な掟である。それを守れば良いと思う。善悪については、自分には自信がない。(林、2013/7/2)