イザヤ書40・6-8

呼びかけよ、と声はいう。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 

人を衆人の誹毀(ひき)に対し自己の尊厳と独立とを維持させるのに無比の力をもつものは聖書である。聖書は孤独者の盾、弱者の城壁、誤解された人物の休息所(やすみどころ)である。これによってのみ、私は法王にも、大監督にも、神学博士にも、牧師にも、宣教師にも抗することができる。私は聖書を捨てることはない。他の人は彼らに抗するために聖書を捨てて聖書を攻撃した。私は私の弱いことを知っているから、聖書という鉄壁の後ろに隠れ、私を無神論者とよぶもの、私を狼(おおかみ)と称するものと戦うのみ。どうしてこの堅城を彼らに譲り、野外、防禦のない地に立って、彼らの無情、浅薄、狭量、固執の矢にこの身をさらすことが出来るだろうか。(内村鑑三、7/3)

 

内村鑑三は1930年に69歳で亡くなった人であり、日露戦争の最中にはキリスト者として非戦論を主張したことで有名である。また無教会主義としても有名である。しかし、教会に反対していたわけではなく、教会に行けない人への集会を設けていたらしい(wiki参照)。

聖書はとても奥深いものであり、その捉え方によっては危険であるとみなされているらしい。本当だろうか?私たちは福音を武器として肉の世と戦う必要がある。戦うという表現が正しいかわからないが、とにかく真剣に取り組まなくてはならない。誰と戦う?もちろんまず自分、そして自分の家族からである。(林、2013/7/3、別府)