詩編137・1-5

バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で、エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよい。

 

愛国の情、これは私たちの至誠である。この至情、私はこれを分析することはできないといっても、私の心思(こころ)を捕らえ、私の生命(いのち)を縛り、私にはこれのために生き、これのために死んでもなおこれに報いることの足りないことを感じさせられる。私のわが国に対する情は、人のその母に対する情である。私は自然に彼女を愛し、私を囲堯(いぎょう)する山川に生霊の充満するような感じがあり、沈黙微妙のうちに私に応(こた)え私に勧めるような感じがある。誰がいうであろうか、物質に生命はないと。私の身体髪膚(はっぷ)はその細微な分子に至るまでわが国土が変化して私となったものではないか。私は国土の一部分であって、私がこの土に付着するのは私自信がこの土の化現(けげん)であるからである。国を愛せないものは自己を愛せないものである。(内村鑑三、7/8)

 

国を愛すること、それを思いめぐらし今日一日を過ごそう。(林、2013/7/8、別府)