ヨハネによる福音書3・18-19

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々は行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。  

 

もし神の刑罰というものがあるとすれば、それは事業の失敗ではない、生活の困難ではない、肉体の疾病(やまい)ではない、家庭の不和ではない、実に、死そのものでもない。これらは皆艱難(かんなん)不幸天罰のうちに数えられるものではない。もし神の刑罰というものがあるとすれば、それは神を知ることができないことである。未来と天国とが見えないことである。聖書を読んでもその意味がわからないことである。感謝の心のないことである。俗人のように万事万物をみることである。これが真の災難である。最も重い刑罰である。(内村鑑三、7/14)  

 

私は、神様の存在を子供達に伝えないといけない。聖書の導くこと、共同体のつながりのこと、イエスキリストが十字架の道行と復活で与えてくれた希望と愛を、今と、未来に向けて生きていくということを。