マルコによる福音書15・29-31

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。」

 

キリストは実に人を救うためには奇跡を行われましたが、自己(みずから)を救うためにはこれを行われませんでした。人を援(たす)けるための異能(ふしぎなちから)を備えたイエス・キリストは、自己を救うためには全然無能でありました。弱いものを救うためには風をも叱咤(しった)してこれを止められた彼は、自己の敵の前に立ってこれに手向かおうとして小指一本さえ挙げられませんでした。キリストの奇跡よりもさらに数層倍も不思議なものは、キリストの無私の心であります。しかしながらこの不思議な心があってこそ、初めてあの不思議な業(わざ)が行われたのであります。(内村鑑三、7/18)

 

彼の体がこの世にあった時、無私の心で生きていた。「貧しいものは幸いである。」彼は心を空にして、神様の恵みを一杯に受け入れられたのではないだろうか?そして、イエスは死んで復活した。今、十億人の人がカトリック信者であり、学校、病院、施設、思想などいろいろなイベントが彼の名によってなされているが、それは我々がイエスとつながっている体であり、彼の復活した姿だからである。