ガラテヤの信徒への手紙6・14-15

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

 

私たちは真正(まこと)のキリスト教を信じて真正のキリスト信者にならなくてはなりません。教会信者や、哲学的信者や、あるいは聖書的信者であることをもって満足してはなりません。事実上、神の子どもとなり、実際的に神の実力を授かり、キリスト教を語る者ではなくて、これを自覚してこれを用いる、ある異能(ふしぎなちから)が私の心に降(くだ)り来て、人も己もしようと願ってもすることのできない根本的大変化が私の全身に施されたことを感じ、その結果として世に懼(おそ)るべき者というものは一つもなくなり、悪魔も私の声を聞いて戦慄(ふる)えるようなそういう人とならなければなりません。すなわちヨブと共に神に向かって、私はあなたのことを耳で聞いていたが今は目であなたを仰ぎ見ると断言できるようなキリスト信者とならなくてはなりません。(内村鑑三、7/21)

 

キリスト教を語る人ではなく、それを用いる人にならなければならない。言論ではなく行動を起こさなければならない。信者である、ないというレッテルに構わず、悔い改めて、イエス・キリストの方向に真っ直ぐにむかないといけない。