ヘブライ人への手紙10・10-14

この御心に基づいて、ただイエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。・・・・・しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。

 

キリストの血(彼が死に際して流された血)はすでに私たちの罪を贖(あがな)った(すなわち私たちを義とした)。しかしながらそれがすべての罪から私たちを潔めるのは、私たち各自にとっては終生の事業である。キリストの血は私たちを潔めるものではあるが、一時に潔めるものではない。神の羔(こひつじ)は世の始めから殺されたものであって(黙13・8)、その血は世の終わりまで人の罪を潔めるものである。贖罪(あがない)は既成の事業であるが、その適用は未成の事業に属する。私たちは日に日にキリストの血によって私たちの罪を潔められなければならない。(内村鑑三、7/23)

 

告解はカトリック教会においては、洗礼後に犯した自罪を聖職者への告白を通して、その罪における神からの赦しと和解を得る信仰儀礼。現在のカトリック教会ではゆるしの秘跡と呼ばれている。(WIKI参照)

罪について。カトリックの信者になってから感じてきたことは、罪の重さである。重い罪、軽い罪、いろいろあり、いろいろ犯しているのだが、日々その重さを感じるようになった。

今日から、ブラジルにてワールドユースデー。1000万人が集まるとのうわさがある。若者の悩みは、非常に深い場合がある。楽しいで終わるのではなく、信頼と友情を築いて喜びに満ちた日々を送って欲しい。