箴言24・30-32

怠け者の畑の傍らを、意志の弱い者のぶどう畑の傍らを、通ってみた。見よ、いらくさが一面に茂り、あざみが覆い尽くし、石垣は崩れていた。わたしはそれに心を向け、観察した。それを見て、諭しを得た。

 

イエスは労働者である。私は彼によって労働の貴い理由を知った。労働は賃銀を得るために貴いのではない、心を養うために貴いのである。煩悶(はんもん)と懐疑とは沈黙黙考によっては解けない、労働によって釈(と)ける。労働の人生における位置は排水溝の沼地におけるようなものである。これによって悪水は除かれ、沃土は残り、地は豊穣をもたらすようになる。煩悶は思うことが多く働くことが少ないことから起こる。煩悶を除くために身を噴火口に投ずるには及ばない。通常の労働に従事すれば足りる。その時糸のように乱れた心は整理されて讃美の声が口からのぼるようになる。(内村鑑三、7/24)

 

仕事は神様からの恵みであると、心の底から信じている。億万の人々が仕事を行っている。いろんな人が、いろんな場所で、いろんな仕事をしている。まるで目が、手が、足が、胃が、腸が、心臓が、皮膚が、髪が、何の苦情も言わずに生命の維持に向かって活動しているように。我々は感謝すべきである。仕事があることに。そして素直に喜ぶべきである。仕事の後の一杯のおいしい水の味を。