年間第17主日ミサ

第一朗読:創世記18・22-32

第二朗読:コロサイ2・12-14

福音:ルカ11・1-13

大分教区召命の日。「神父になるのはいいですよ!」と説教するのは難しい。昨日、鹿児島県の幼稚園の研修会にいって、話を聞いてきた。37歳の若い母親の話。二人の子供がいて、長女は自閉症。長男は未熟児で600gで生まれてきた。大変な思いをしてきたが、自分の子供として生まれてきて幸せを感じると、その母親は言う。普通の子供であったなら、何でも当たり前のことが、一つ一つが大変。驚きと喜びを感じる。下の子は心臓が危ない。普通の子ならあるくことは当たり前。しかし彼にとっては歩けることが喜び。友人と遊べるのも喜び、小学校に入るのも喜び。当たり前のことが奇跡にように思える。

父は良いものを与えてくれる。母も同じ。神父になること。神学校に行った時は、なりたくなくて嘆いていた。いつかはやめて結婚して幸せになろうと思っていた。今は外国(日本)にきて神父をしている。大変な時もあった。神父になって幸せを感じている。

男の子であれば、半分冗談、半分本気で、神父になることを話している。結婚するのは全ての人。それをしないのは異常。私もそう思っていた(李神父様)。そして神様の召命、司祭の召命。結婚以外にもいろいろある。善いものの為にそれをあきらめる。

自分が子供の時に描いた将来の姿が、全てではない。出来ないことというのがある。落胆することはない。神様の導(みちび)きは大きな幸せ。いろんな道に導かれる。選択は増える。(李建錫神父様、7/28)

 

心苦しい。理屈ではなく、神父に’なる決心というのは、本当に尊重すべきことである。でも、自分の子供がそうなるか、と決断を攻められると、心苦しい。私に、その権利があるのか、と自分を責めてしまう。親としては、子供にも親になって、子育ての苦しみ、そしてその喜びを得て欲しいと願っている。