ヨブ記19・25-27

わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

 

死とこれに伴うすべての苦痛(くるしみ)を免れようとするのがこの世の宗教の目的である。死は単にこれを凶事と認め、苦痛はすべて神の刑罰であると思い、これを免れることを祈祷(きとう)の第一の目的とする者は、すべて異教の信者である。彼らは哀哭流梯懇求(あいこくりゅうていこんきゅう)して言う、「願わくは死より救えよ」と。しかしキリスト者は、実に、真正(まこと)のキリスト者はそうは祈らないのである。彼らは彼らの主にならい「父よ死をお下しになるのもよい、ただ願う、その中から救い出して下さい、私を死に勝たせて下さい、死を通過して不死の生命(いのち)に達しさせて下さい」と祈るのである。また死に限らない、すべての艱難に対してもそうである。まことのクリスチャンは艱難から救われようとしない、艱難の中から救われようとする。火を避けようとしない、火の中に投じられてその中にあって潔められようとする。

 

昨晩、金沢のホテルでサウナに入った。江戸時代初期の迫害においては、キリスト者はこのような場所に入れられたかもしれない。5分どころではなくもっと長く、もっと熱い場所に。。。しかし、私は5分しかもたなかった。そのあと水風呂にはいった。その時も考えた。キリスト者なら逆さにされて頭から入ったかも知れない。寒けがしてすぐ出てしまった。

死に関しては、我々が必ずいつか迎えるこのイベントに対しては、軽い気持ちではいけないと思う。わたしはどのように救われるのかを知らない。ただイエス・キリストの十字架を背負って死に向かう姿が、自分にとっての応援歌であり、希望である。