エフェソの信徒への手紙1・13-14

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この精霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

 

悪を避けよ、そうすればあなたは神を信じることができるというのは異端である。真正(まこと)のキリスト教は言う、神を信じよ、そうすればあなたは善をなすことができると。心を潔くせよ、そうすればあなたは神の聖霊の恩寵(たまもの)にあずかることができるだろうというのは異端である。聖書は明らかに私たちに教えて言う、神の聖霊を受けてあなたの心を潔められよと。行ないを先にして信を後にするのは異端である。キリスト教は信を先にして行ないを後にするものである。しかも人がその神の恩恵(めぐみ)を信じることの薄いときは、彼らは自らの行為の報賞(むくい)として天の恩寵にあずかろうと願う。天が地よりも高いように神の意(おもい)は人の意よりも高い。神が私たちの不信をお怒りになるのは私たちが私たちの行為をもって神の恩恵を買おうと願うからである。(内村鑑三、8/3)

 

キリスト教はこういうものである!と私から言うことは出来ないし、こう排他的にこうでなければいけない、というのも賛成できない。アフリカ人が素直に、当たり前に神を信じているのに対して、日本人が素直でなく、神を信じることが当たり前ではないのは、社会が文化や風習というベールに包まれていて、それらが快適で安定したものだからだと思う。アフリカでは親が神の存在を教える必要はない、というより親がいない人が圧倒的に多い。だからこそ、神様の存在を感じられるのである。日本では親が努力しないと信仰が深められないと考えられている。私は自分の信仰など、とるにたりない、というか、絶対に大したものではないと信じている。親がいかに努力したところで、子供がアフリカ人のように神を信じるようにはならないと思う。