ヘブライ人への手紙9・11-12

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

神の子イエス・キリストのみが完全な祭物(そなえもの)である。彼のみがまことに「世の罪を負う神の羔(こひつじ)である(ヨハ1・29)。彼はまた完全な己を聖父(ちち)に献げられた。そして人は信仰をもって彼の犠牲(いけにえ)を己の犠牲として、神に対して完全な犠牲を献げることができるのである。イエス・キリストは私たちの完全な燔祭(はんさい)、完全な素祭、完全な酬恩祭(しゅうおんさい)、完全な罪祭、完全な愆祭(けんさい)である。カルバリ山上において彼が完全に自己を聖父(ちち)に献げられてから、ここに牛や馬や鳩や小麦やオリーブ油や乳香をもって行う祭時の必要は全く絶えたのである。今や彼を信じる者に礼典の必要は全くないのである。(内村鑑三、8/4)

 

日出殉教公園の掃除に行った(8/3)。加賀山親子は1619年10月15日に殉教した。遠藤周作の沈黙を思い出す。ロドリゴ神父とキチジローの葛藤。そして、数え年5歳で殉教したディエゴの気持ち。。。父の殉教するのを見届けた後、彼は「キリスト、マリア」と唱えて同じ刃によって切られた。ディエゴ君の信仰は見事なものである。裏切りと懺悔を繰り返すキチジロー、その顔を通してイエスがロドリゴ神父に語りかける、「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」。ロドリゴ神父は彼自身の信仰を捨て、苦しむ信者の人生を救う踏み絵を選んだ。踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは岡田三右衛門という名を与えられ江戸で生涯を終えている。わたしは、ロドリゴ神父に同感である、