ナホム書2・1

見よ、良い知らせを伝え、平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者が、お前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた。

 

キリスト教の伝道は感謝の祭事であります。私たちの伝道はキリストの愛に励まされて行なうのであります。私たちは沈黙を守ろうと望んでも守りきれないからであります。私たちのような罪人(つみびと)をお救い下さる神の恩恵(めぐみ)を考えて、いても起ってもいられなくなるからであります。キリスト教の伝道は義務ではありません。特権であります。快楽であります。敵人(あだびと)の口調をかりて言えば「道楽」であります。「もし私が福音を宣べ伝えなければ実(まこと)に禍(わざわい)である」(1コリ9・16)、これはパウロの言(ことば)でありまして、すべて言い尽せない歓喜をもってキリスト教の福音の宣伝に従事する者の声であります。この歓喜なくして、この抑えきれない感謝なくしてはキリスト教の伝道は必ず失敗であります。(内村鑑三、8/5)

 

福音の伝道は趣味であり、楽しくやるものである。これ、同感です。そのとおりです。祈りは一人部屋にこもって行うべきだと思う(イエス様がそう言ったからです)。祈りには苦しみ部分が多く、深さがあり、そして喜びがその後に来るもの。でも福音宣教は自分一人で行うものではない。自分の人生を良くするための知恵を増やす勉強ではない。その言葉の解釈が個人の人生観で異なるのは仕方がない。でも歓喜に充ち溢れて行なう趣味なのですから、誰にも止められない。キリストの言葉にはもの凄い力がある。福音を語るときに、キリストの力を借りて話していることを感じる。