エフェソの信徒への手紙1・3-5

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福でみたしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 

人類が救われるためには、まことに、私がわが主キリストの救済(すくい)にあずかるためには、日月星辰(せいしん)は天空(そら)にかけられ、山は高く地の上に挙げられ、海は深くその下に掘り下げられる必要があったのである。私の救済は容易なことではなかった。これは私の短い一生をもって成就(なしと)げられることではなかった。私の救済は宇宙の創造をもって始まったのである。このことを思って、朝陽水を離れて東天ようやく明らかなる時、または夕陽西山に春(うすづ)いて暮雲地を覆う時、または星光万点蛍火(ほたるび)のごとく蒼穹にきらめく時に、私は私の救済の神をほめ、彼に感謝の讃美を献げなくてはならない。(内村鑑三、8/14)

 

内村の感じていることがよくわからない。。。確かにこの広い世界、長久なる宇宙の時間の流れを思った時、私一人の短い一生など、本当に一瞬のことである。どうして天地創造の前の話をしているのだろうか?聖書においては、天地創造の時からを述べていると思うが、その前のことが記載されているのだろうか?復活のことも、わからないことが多いが、天地創造の前の話もわからない。