箴言25・21-22

あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を頭に積む。そして主があなたに報いられる。

 

私たちにも敵がある、たくさんある。しかし敵だからといって私たちは彼らを憎まない(キリストの教訓に従って)。私たちは友人を憎むことがある、友人とあらば私たちは彼らの行為について怒ることがある。私たちは私たちの友人を詰責(きつせき)するのに躊躇(ちゅうちょ)しない。友人の駁論(ばくろん)であれば、私たちは熱心に反駁(はんばく)する。しかし敵人に対して私たちはこれと全く反対の態度に出る。敵人が私たちに加える害については私たちは決して怒らない。その嘲弄(ちょうろう)侮辱に対しては私たちはただ好意と感謝を表するだけである。私たちは敵人の攻撃に対しては、私たちの主イエス・キリストの例にならって努めて沈黙を守ろうとする。敵人に殴られる時には、私たちは彼が私たちに向かって挙げた手の上に神の祝福(さいわい)が下ることを祈る。敵人に対しては私たちに寛裕(かんゆう)と忍耐と宥恕(ゆうじょ)があるのみである。私たちは友人を憎むことはあっても、敵人に対しては絶対的にこれを愛するのみである。(内村鑑三、8/15)

 

自分の子供に対しては、何か良心に逆らうことを見かけると、なぜか自然に怒ってしまう。また、あまり心の交流のない人に対しては怒れない。しかし、友人に対してはどうか?自分がつい自然に怒ってしまう友人は、自分が親身に考えている大切な人なのかもしれない。自分が怒れない友人は、疎遠な人なのかもしれない。