ヘブライ人への手紙11・17-19

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

 

信仰は書斎に籠り書籍のうちにうずまって獲(え)られるものではない。教師の説教を聞いて獲られるものではない。人生の実際問題に遭遇して、血と涙とをもってその解釈を求めて終(つい)に獲られるものである。「復活の信仰」、アブラハムはその一子イサクを献げてこの信仰を得た。神学者についてではない、哲学者を繙(ひもと)いてではない。その一子を献げる辛い実験によって、人生最大の奥義である復活の信仰に達したのである。貴いかな患難(なやみ)、貴いかな試練。貴いかな試練を経て私に臨む大なる光明。まことに使徒ヤコブの言ったとおり「わが兄弟よ、もしあなたがたが様々な試練に遇うならば、これを喜ぶべきこととしなさい」と(ヤコ1・2)(内村鑑三、8/16)

 

アブラハムがイサクを献げる場面を思い巡らせていた時期がある。息子が夏のキャンプに行き、神父様になるようにと、言われていた時期である。ロザリオの喜びの神秘にもありますね、「イエスは神殿にささげられる」と。この「息子をささげる」ということ、それは大きな試練である。信仰なくして、行えることではない。神父様のお父様、お母様達よ、あなたがたの信仰を尊敬しますし、感謝いたします。