フィリピの信徒への手紙2・6-9

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

 

罪の価(あたい)は死であるといい、死の棘(とげ)は罪であるといえば、罪に生まれた人が死ぬことは当然であり自然である。これに反して死の原因である罪を知らなかったイエス・キリストが死んでそのまま失せたというのは不当でありまた不自然である。私たちは人が死ぬのを聞いても驚かない、それは彼が罪の人であることを知るからである。しかしながら、ここに一回も罪を犯したことがなく、使徒ペトロの語(ことば)をもって言えば「彼は罪を犯さない、またその口に詭譎(いつわり)はなかった、彼はののしられてもののしらない、苦しめられても激しい語を出さず、ただ義をもって裁く者にこれを託(まか)せた」というような完全な人であるイエスが死んで朽ち果てたと聞いて、私たちは大いに怪しまざるをえないのである。こういう人は世が始まって以来ただ一人あっただけである。このような人が死から甦(よみがえ)って昇天したというのである。(内村鑑三、8/17)

 

死と罪、永遠の生と義。科学の世界でこの理屈は通らないと思う。完璧な義人であれば死なない、しかしその完璧さをどう実証できるのかがわからないし、全ての人が罪人だから死ぬ、と言われたら、生まれてすぐに死んだ赤ちゃんはどうなる?彼の罪は?原罪のことを言っているのだろうか?

心や精神、魂の存在を認める世界であれば、それを実証出来る。イエス様は今も心の中で生きているし、復活を信じる人々によって、いろんな社会的活動が行われている。もしイエス様が死んでいるのであれば、とうの昔に忘れ去られているだろうし、その歴史的な言葉だけが記述されているだろう。わたしたちは、体が死んだら、魂も死ぬのであろう。それは罪人だからである。世の中の人にも忘れ去られるし、誰の心中にも生きてはいけない。しかし、イエス・キリストを受け入れ、同化すれば、その魂は永遠に生きていける。