コリントの信徒への手紙2、11・2-3

あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。

 

「キリストが私の内にある」。私がわきにあるのではない、私と共にあるのではない、また単に私が内に宿っている心の客となっているのではない。キリストが内にあるとは、私の存在の中心におられるとの意である。すなわち彼が私の意志となり、私のペルソナとなり、私を彼と私との判別ができないまでに至らないはずはない。この時における彼と私との和合は親密な夫婦の和合にもよりまさって、彼が私であるか私が彼であるかこれを判別できなくなるのである。二心同体に宿る、これを友誼(ゆうぎ)と言うと。けれどもキリストとクリスチャンとの一致は二心の抱合であるにとどまらずに、二個のペルソナが相流合して一つとなったものである。このために二者は永久に離れるべきものではない。(内村鑑三、8/20)

 

ペルソナ(persona)とは、三位一体における位格の意味。三位一体とは、カトリックだけでなく、プロテスタント正教会東方諸教会聖公会などのキリスト教の多数が共有している。

マタイ1・18-25によると、

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリアはヨゼフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

1:19 夫のヨゼフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨゼフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨゼフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

ヨゼフは素晴らしい人だと思う。マリアも勿論である。彼らの信仰ある人生の歩みがあって、イエス様を授かった。信じるとは、神様からつかわされる聖霊と一体になること。周りの目を気にしないこと。神と自分との関係を重視すること。ヨゼフが周りの目を気にする人生を歩んでいたなら、マリア様はイエスをこのように授かることが出来なかったかもしれない。