ミカ書7・7-9

しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光。わたしは主に罪を犯したので、主の怒りを負わねばならない、ついに、主がわたしの訴えを取り上げ、わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。

 

日に三たびわが身を省みるとは儒教の道徳である。その常に退歩的で、保守的で委縮的であるのは自抑内省をもってその主な教義とするからである。あなたがたはわが「神」を仰ぎ見よ、そうすれば救われるとはキリスト教の道徳である。その常に進歩的で、革新的で、膨張的であるのは信頼仰望をその中心的教理とするからである。パウロは言う、善なるものが私すなわち私の内にいないことを私は知っていると。私たちは自己(みずから)を省みてただ慙愧(ざんき)あるのみ、失望あるのみ、新希望と新決断と前進向上とは反省回顧からは生まれないのである。(内村鑑三、8/21)

 

私は、内村の言う、自分を省みて慙愧あるのみ、の意味、感覚がよくわかる。この自分を無にして神からの言葉(聖霊)を受け入れたいと願っている。この自分を反省し、修正したところで、どのようになるのか?信仰とは受け皿である。上を仰いで受けることの出来るお皿のようなもの。つまらん自分的なものは、その中に要らないし、反省などして下を向くと、大切なものを受けることが出来ない。ただ、空っぽにして受ける(主を仰ぎ見る)。それが私の信仰。