フィリピの信徒への手紙1・27-28

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。

 

もし日本が今日のキリスト信者で一致するなら、天下の何者がこれに当たることができよう。しかし教派分裂の弊をきわめる欧米諸国の宣教師によって道を伝えられたわが国の今日のキリスト信者の一致は、熊と獅子との一致を望むよりも難しい。もし幸いにして神の霊が強く私たちの内に働き、彼が私たちにキリストを思うように私たちの国を思わせ、外に頼る愚と恥と罪とを悟らせて下されば、一致は芙蓉の巓(いただき)に臨み、琵琶の湖面に降(くだ)って、東洋の天地に心霊的一生面(せいめん)が開かれるのをみるだろう。しかしその時の来るまでは私たちは今日の分裂孤立をもって満足しなければならない。これあるいは私たちが人に頼ることなく神にのみ頼ることを学ぶための神の御旨(みむね)であるかもしれない。(内村鑑三、8/22)

 

日本における日本人のキリスト信者であることを意識しなければならない。0.3%である。まわりは特有文化のベールで包まれた島国の単一民族である。もしこれが90%を超えるキリスト教国であったなら、信者で居続けることは容易であり、逆に無信仰でいることに気まずさを感じるだろう。日本においては、少数派であり、ここ数100年、フランシスコザビエルがキリスト教を伝えてから、迫害されてきた。村八分にあってきた。周りから違う目で見られてきた。理解されずに、特別視されてきた私たちである。よく中高生になると、教会に来なくなる子供達の話がある。それは人生の中で、一番周りの人の目に敏感な年頃だからであろう。周りの人と異なることに、違和感を感じ、拒絶するのであろう。

イエス・キリストも同じように迫害を受けてきたことを、思い描きましょう。彼も理解されなかった。裏切られた。つばされた。殺された。しかし、信念を貫いた、神への信頼を損なわなかった。そして復活した。日本人の殉教者の意気込みを知り、愛し、意識しないといけない。