アモス書7・14-15

アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培するものだ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、「行って、わが民イスラエルに預言せよ」と言われた。

 

世の大宗教家と称するものにかえって神学校出身の人に多くないのを見る。神の人ティシュベ人のエリヤはギレヤドの野人であった。そしてこの人はその天職と精神とを他に授けようとするのに、12軛(くびき)の牛を馭しつつあったシャファトの子エリシャを選んだ。ダニエルは官人である。アモスは農夫である。そして神がその子を降(くだ)して世を救おうとするとき、彼をヒレル、ガマリエルの門に学ばせることなく、反対に彼を僻村ナザレに置き、レバノンの白頂キションの清流によって彼を教えられた。一乾物店の番頭であったムーディ氏こそ、実に19世紀の今日の宗教的最大勢力ではないか。神学校は天性の伝道師を発育させるが、これを造るところではない。神学校の製造にかかわる伝道師こそ世の不要物で、危険物であろう。伝道師養成は造物主(つくりぬし)でなければ行なうことができないことなのである。(内村鑑三、8/27)

 

預言者がいろいろ出たのが旧約聖書であり、そしてイエスキリストという救い主が新約聖書に登場してきた。その後多くの信仰者、殉教者が出てきて、その内容は聖伝として後世に伝えられている。マリア様もその一人である。聖フランシスコもそうだし、ドンボスコもそうである。その、内村が言う、「大」とか「多い」というのはわからないし、伝道師が不要であるという理由もわからない。