ヨハネによる福音書1・9-11

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

 

イエスはその道徳が他にすぐれてあまりに高潔であったために人に憎まれたのではない。彼が彼の父なる神に忠実であろうとして人にはどんな人にもくみしなかったために、そのためにすべての人に憎まれたのである。すなわち彼は無党派、無教会、無国家であったために、すべての党派、すべての教会、すべての国人に憎まれたのである。世に孤独な者といって、神と共にある者はない。しかもイエスは神をのみ友とした者である。世はこういう者を受け入れない。この世はすべて党派である。党派でない者はこの世の者ではない。党派は常に互いに相争うといっても、どの党派にも属さない者はすべての党派の斥けるところとなる。イエスを世界が退けるところとなったのは半ばこの恐怖、半ばはこの嫌悪によるのである。(内村鑑三、8/28)

 

人間は社会的動物と言われる。家族-親戚-会社など-国家-民族-人類、と社会に属している。一般的に家族は大切なものである。しかしイエスキリストはその社会的観念を超越している。「わたしよりも父、母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも、息子、娘をあいするものも、わたしにふさわしくない」(マタイ10・33-39)という。家族という社会性を超越する。生物における所属性である、生と死をも超越する存在である。

どうしてイエスキリストは嫌われたのか?理解されなかったのであろう。とても受け入れられる素養が人類に備わっていないのだろう。しかし宗教は、その生と死に関わる道徳である。人以外に宗教を持つ生物はいない。愛を基準とするキリスト教は、それをもって生死を超越することを信じる宗教である。