ヨハネの黙示録21・1-4

わたしはまた、新しい天と新しい地をみた。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 

イエスはヤイロの女(むすめ)を死から甦(よみがえ)らせて、これをその嘆いていた父母にお還しになった。そのように末(おわり)の日において、彼はすべて彼を信じる父母の祈求(ねがい)に応じてそのかつて失った女(むすめ)を復活させて、これを再び彼らの手に還し、彼らの心を歓ばせられるのである。すべてのまことのクリスチャンは、喜ぶべき末の日において、ヤイロが実験したような耐えがたいほどの歓喜を実験するのである。「イエスは女(むすめ)の手を取ってこれに言うのにはタリタ、クム、これを訳(と)けば女(むすめ)よ起きよとの意である」と。信者はすべて自らいつか一度、この喜ばしい声を聴き、能力(ちから)あるこの聖事(みしごと)を拝見するのである。(内村鑑三、8/29)

 

エルサレムに行ったことがない。新しいエルサレムという意味もよくわからない。イメージ的には、宇宙船かUFOのようだ。

ヤイロの実験による歓喜とは。死んだ娘が甦って来た時の父母の喜び。自分には娘がいないが、その状況にならないと、どんな喜び、どれくらい大きい喜びなのかがわからない。