マタイによる福音書16・24-25

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

 

この美麗な造化は、私たちがこれを得るために造られたのではなく、これを捨てるために造られたのである。否、人がもしこれを得ようと望めばまずこれを捨てなくてはならない(マタ16・25)。誠(まこと)に実(まこと)にこの世は試練の場所である。私たちは意志の深底から世と世のすべてを捨て去って後初めて私たちの心霊も独立し、世も私たちのものとなるのである。死んで活(い)き、捨てて得る。キリスト教のパラドクス(逆説)とはこのことをいうのである。(内村鑑三、8/30)

 

カトリック教会の神父様達は、自分を捨ててイエスキリストに従って来ている方々であると、間違いなく信じる。教会の形、共同体、活動にはいろいろなものがあり、それがイエスについていく活動ではないこともありうるが、神父様の人生における選択は、尊敬しているし、尊敬すべきだと思う。