キリストに倣いて(3.33.2 心の変わりやすいことと、神を終局の目的とすべきこと)

 心の目が清ければ清いほど、人はいよいよしっかりしていろいろな嵐の中を通りぬけることができるだろう。

 けれどもこの心の清い目は、多くの人の場合曇るのである。というのは、何か楽しいものに出会うと、すぐにそれに見とれてしまうからである。

 なんとなればまったく利己心の汚れのない人は、めったにないからである。

 かつてユダヤ人らが、ベタニアのマルタとマリアのもとに来たのは、「独りイエズスのためのみならず、またラザロをも見るため」(ヨハネ12.9)であった。

 だから心の目は清くしなければならぬ、そしてひたすらに、まっすぐに、さまざまな障害物をことごとく乗り越えて、わたしに注がなければならぬのである。