キリストに倣いて(3.46.4 悪口されたときは、神を信頼すべきこと)
人間の証言はしばしばあてにならぬことがある。けれどもわたしの判決は真実で変わることなく、またくつがえされることもない。
ただそれはたいてい隠れていて、これをくわしく啓示される者は至って少ない。そして愚か者の目には正しくないと見えても、決して誤らず、また誤り得ないのである。
だからあなたは、他人から是非されたときにはいつでもわたしのもとに馳せ来たるべきで、自分の意見によってはならぬ。
「義人は神から何事が起こって来ても、これに心を乱されない」(格言12.21)
そして何か不当なぬれぎぬを着せられても、あまりそれを気にかけない。
また他人から正当な弁護を受けても、いたずらに喜ばない。
というのは、こういう人は「わたしが人の心臓を探る者」(黙示録2.23)で、人間の顔形によらず審判くことを思うからである。
だから、人間の判断では称賛すべきことと思われるものが、わたしの目には罰すべきことと認められる場合もしばしばあるのである。